「自転車とランニングブーム」この現象はいったい何なのだろうかと考えてみた。

このブログを読んでいただいてる相棒殿の御尊父殿が自転車を本格的にはじめられたらしい。そして駅伝当日相棒殿に負けてられんと85kmを走破された。これはすごいことだ。自分も何歳になってもその心意気を忘れず情熱的に生きていきたい。

自転車やランニングを始めたよという声が自分の周囲でもたびたび聞こえるようになってきた。駅伝メンバーも少し前までは呑んで食って寝るだけのただのメタボおっさんだった連中だ。それが今ではおれはキロ何分だおれは何キロ走っただ意地の張り合いを繰り広げる。「お、やせたね」なんて言われた日にはニヤけが止まらない始末。自分も「毎日サイクルトレーナーこいで体脂肪率ン%だぜ!」と言って気持ち悪いものを見る目あるいは気の毒そうな目で見られるのがたまらなく快感だ。


「自転車」と「ランニング」は何故ここまで人を熱くさせるのだろうか。マックスウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を最近読み返してそのとき何となくスコンと落ちたことを思い出してつらつらと書いてみた。

「人はいかによく生きるべきか」という人間ならば先天的に持ち合わせているであろう倫理感。それと競争を原理原則とした資本主義の精神やプログマティズム経済は相反し矛盾さえしてる。要するに資本主義とよくいきるという倫理感は常に対立しているのだ。「よくいきる」や倫理感を具現化したものは何か。欧米のようにピューリタニズムやクリスチャニズムが根付いていればそれはドネーションという言葉に置き換えられる。が、日本は資本主義、プログマティズムに対抗する軸が見あたらない。

具体的な倫理感、宗教が存在しない希有な国なのだ。そこで唐突ではあるが対抗軸として「自転車」「ランニング」を登場させてみる。両者ともエコでヘルシーだ。エコでヘルシーは地球規模で正義だ。宗教的といってもいいほどの正義を持ち合わせている。そして両者とも身体的充足観をかみしめることができる。現代はIT化が進み専門性が高く自発性を伴う知的労働者集団の仕事と他律的単純労働者集団の線引きが希薄になっている。「労働」という言葉が本来持っている観念や意味すらも消失しかけている。「はたらくことの意味ってなに?」という問いすら成立してしまう。労働と倫理は一体である、つまり労働はよきこと、そういわれてる時代は確かにあったのだがそれは過去の話になってしまった、ということだ。労働から得られる充足感の欠如と自己疎外感。知的労働者階級の人々にとっても労働はもはや他律的自己実現の場としての機能を失ってしまったのだ。労働の意味性と価値の消失は身体論的な立場からも説明できる。かつて労働の主たるものは肉体労働であった。労働は常に身体を介在し両者は不可分なものであった。労働することはすなわち身体を使うことであった。労働をするには健康で頑強な身体が必要だったわけだ。しかし現代は情報化社会である。情報化社会は脳化社会と言いかえられる。脳化された現代において身体の優位性は失われてしまったのだ。労働(=身体)の意味の消失。そこで再び「自転車」と「ランニング」が登場する。

へーゲルがいうように人はよくいきようとする。あるいはよくいきるためにはどうすべきかという思考を働かす。アメリカがまき散らした市場原理主義やらグローバリズム、それらは日本にも持ち込まれた。労働の意味性の消失が資本主義の末路ならば根っこはやはり資本主義と倫理感の対立である。資本主義の対抗軸として日本人が持ち出したもの、よくいきるためのもの地球規模で声高に正義といえるものそれが「自転車」であり「ランニング」だったのではないだろうか。従って両者は油断すると教条主義に陥る。それも当然だ。他の資本主義国における対抗軸は宗教なのだから。そして自転車とランニングは身体を酷使する。酷使し存在を確認するのだ。倫理はある身体はある、と。

まだ書くべきことはのこっているが相棒殿にさっさと寝ろと怒られたのでひとまずまとめてしまうと、資本主義経済と情報化社会という社会基盤の上に生きるがゆえに失なわれてしまった倫理観と身体。それらを取り戻すための「自転車」と「ランニング」つまりそういうことではないだろうか。